LOGIN子供が消えた夜の翌朝、屋敷の空気は変わっていた。
誰も大声を出していない。 廊下を走る者もいない。 使用人たちは普段通りに盆を持ち、扉を開け、茶器を下げる。 だが、静けさの質が違う。 昨日までの静けさは、ノエルを驚かせないための静けさだった。 今日の静けさは、誰かの悲鳴を待っているような静けさだった。 セレスティアは、その空気が嫌だった。 ノエルも察する。 子供は、こういう空気を大人が思うよりずっと早く吸い込む。 だから朝食の席では、できるだけいつも通りにした。 卵は半分。 スープは三口多め。 硬いパンは、今日はスープに浸さず皿の横。 犬のパンは机の下で、セレスティアの靴紐を狙っていた。「パン」 ノエ噂は、扉を叩かない。 礼儀正しい訪問客のふりもしない。 朝露のように庭へ落ちて、靴の裏について、いつの間にか廊下へ入り込む。 その朝、公爵邸に届いたものは、裁判所からの封書ではなかった。 社交界の茶会の招待状。 慈善音楽会の案内。 季節外れの見舞い状。 どれも一見、丁寧だった。 しかし、丁寧すぎるものは、時々刃物より鋭い。 セレスティアは書斎で、それらを一通ずつ開いた。 『この度のご心痛、いかばかりかと拝察いたします。亡きレイモンド夫人が最後にお頼りになろうとしたのが貴女様であったと伺い、胸を打たれました』 『親友同士の絆とは、時に血縁よりも深いものですね』 『お嬢様の養育に関しましても、亡きご母堂のご遺志が貴女様に向けられていたこと、いま改めて社交界の注目を集めております』 『かつての婚約関係と、亡き夫人との友情、そして幼いお嬢様の後見。複雑なお立場であられますが、どうぞお体を大切に』 どれも、表向きは気遣いだった。 だが、その下に透けているものは同じだ。 面白がっている。 物語にしている。 親友に婚約者を奪われた女。 その親友が死の直前に頼ろうとした女。 残された娘を育てる女。 冷徹公爵と共に屋敷に入れた女。 彼らにとって、セレスティアもミレイユもノエルも、語りやすい駒になっていた。 セレスティアは、三通目の手紙を畳む途中で手を止めた。 指先に力が入る。 破ってはいけない。 記録として保管する必要がある。 噂の流れを読むためにも。 分かっている。 分かっているが、破りたい。 「破るなら、写しを取ってからにしろ」 リュシアンが言った。 い
反論書を提出してから二日後、裁判所から返答が届いた。 灰色の封筒だった。 最近、セレスティアは封筒の色を見るだけで、胃のあたりが少し重くなる。 白なら警戒する。 青なら息を止める。 黄色なら未来を思う。 灰色なら、裁判所だ。 灰色の封筒には、感情がない。 そこが一番厄介だった。 人の傷も、子供の箱も、大人の罪も、同じ紙の上に整列させる。 必要なことだと分かっている。 けれど、食卓とは違う場所だ。 セレスティアは封を切る前に、リュシアンを見た。 彼は腕を組んで立っている。 机との距離は、昨日より少し離れていた。「机から離れていますね」「意識している」「成長です」「ノエルに言われた」「でしょうね」「君にも言われた」「言いました」 短いやり取りをしてから、封を切った。 内容は、予想よりも悪くはなかった。 伯爵夫人側が求めた箱内文書の包括提出は、現段階では認められない。 ノエル本人の直接出廷も、当面不要。 ただし、児童の心理的保護に関する後見局専門官の意見書は正式に提出すること。 また、後見人側が申し出たアルベルト・レイモンドの追加証言については、初回審理の中で聴取する。 セレスティアは、最後の一文で手を止めた。 アルベルトが話す。 ノエルの箱ではなく。 ノエルの気持ちではなく。 父親である男が、自分の知っていること、自分が黙ったこと、自分が逃げたことを話す。 それは正しい。
ノエルの箱を、裁判の道具にする。 その申立書を読み返すたびに、セレスティアは自分の指先が冷えていくのを感じた。 怒りというものは、熱いだけではない。 本当に腹の底まで落ちると、むしろ静かになる。 紙の上の文字は丁寧だった。 被害児童の精神状態。 後見人による誘導の可能性。 箱内文書の提出。 必要な確認。 どれも、裁判所へ出す文書としては整っている。 けれど、その整った言葉の下にあるものは単純だった。 ノエルが自分で怒っているはずがない。 ノエルが自分で考えられるはずがない。 だから、箱を開けろ。 気持ちを出せ。 大人の争いの材料にしろ。 セレスティアは、ペンを握った。 強く握りすぎて、指が痛い。「ペンが折れる」 向かい側からリュシアンが言った。 彼は机の前で腕を組んでいる。 机を殴らない代わりに、机を睨んでいた。 机は無実だ。 だが、かなり不安そうに見える。 いや、机に表情はない。 ないのだが、最近セレスティアの中でも、家具への同情心が芽生えつつある。 よくない傾向かもしれない。「閣下こそ、机を睨まないでください」「睨んでいない」「今、机が遺書を書きそうな顔をしています」「机に顔はない」「顔が元からだと言う方に言われたくありません」 リュシアンは一瞬黙った。「…&hell
裁判の日取りが決まった知らせは、朝食の前に届いた。 封筒は灰色だった。 白ではない。 青でもない。 黄色でもない。 ただ、役所の棚に長く置かれていそうな、何の感情もない灰色。 それが逆に、少し怖かった。 伯爵夫人の白い花や、ミレイユの青い封筒や、黄色い未来の封筒は、色があるぶん、こちらも身構えられる。 けれど、裁判所からの封書は違う。 感情を剥がした顔で、淡々と人の罪と罰を並べる。 セレスティアはその封筒を受け取った瞬間、指先が少し冷たくなった。 リュシアンは、すでに書斎にいた。 最近、朝の報告は二人で受けることが増えている。 それが当然のようになっていることに、セレスティアは時々気づいて、時々気づかないふりをした。「裁判所からです」 家令が言った。「初回審理の日程通知と、関係者への出席要請でございます」 リュシアンの眉間が深くなる。 机が少し心配そうに見えた。 いや、机に感情はない。 けれど最近、セレスティアまでそういうことを考えるようになっている。 完全にノエルの影響だ。「顔」 セレスティアが小さく言うと、リュシアンは封書から目を離さずに答えた。「まだ読んでいない」「読まなくても出ています」「顔は元からだ」「今日は、その言い訳は三割だけ許します」「なぜ三割」「裁判所の封筒なので」「基準が分からない」「私もです」 家令は何も聞こえなかったように立っている。 この屋敷の家令は本当に
金庫の扉は、閉じたあとも重かった。 音が、しばらく耳に残る。 ごん、と低く響いたあの音は、ただ金属が噛み合っただけの音ではなかった。 今日は読まない。 十歳まで絶対読まないとも、今日決めない。 半年後の自分に、もう一度聞く。 ノエルがそう決めた音だった。 その日の翌朝、ノエルはいつもより少し遅く起きた。 疲れたのだろう。 十歳の手紙を読まなかっただけなのに、まるで長い旅から帰ってきたような顔をしていた。 寝癖も少しついている。 髪の左側だけ、ふわりと跳ねていた。 セレスティアが櫛を手にすると、ノエルは鏡の前で自分の髪を見て、ぽつりと言った。「十歳の手紙は、昨日も泣きませんでしたか」「手紙は泣きません」「でも、頭の中では泣くかもしれません」「そうね」「昨日の夜は、泣きませんでした」「ノエルが?」「はい。少しだけ泣くかと思ったけど、眠くなりました」「たくさん考えたからね」「考えると、眠くなります」「とても自然なことです」「伯父さまは、考えると棚を壊しそうになります」 セレスティアは、櫛を止めた。「それは、あとで本人に伝えますか」「伝えます」「では、少し柔らかく」「伯父さまは、考えると棚を心配させます」「……柔らかくなったかしら」「少し」 ノエルは真剣だった。 こういう時のノエルは、冗談を言っているのか、本気なのか分からない。 たぶん、両方だ。
エリス・モーランが公爵邸を訪れたのは、昼前だった。 その日は朝から、屋敷の中に妙な緊張があった。 嵐の前というほど激しくはない。 けれど、食卓の皿を置く音が少しだけ小さくなり、侍女たちの歩く速度がいつもより慎重になる。 そういう緊張だ。 ノエルは朝食の席で、黄色い花を見ながらスープを飲んだ。 一口。 少し間を置いて、もう一口。 硬いパンは皿の横に置いたままだった。 犬のパンは机の下にいる。 今日は、ノエルの靴先に鼻を押しつけていた。「パンは、今日も分かっていません」 ノエルが言った。「そうね」 セレスティアは頷いた。「でも、います」「ええ」「分からなくても、いていいです」「そうね」 リュシアンが、食卓の向こうで小さく頷いた。「それは重要だ」 ノエルは少しだけ彼を見る。「伯父さまも、分からなくてもいますか」「いる」「今日は、十歳の手紙のことが分からないです」「私も分からない」「伯父さまも?」「ああ」「大人なのに?」「大人でも、分からないことはある」「逃げる言い方ですか」「逃げていない」 リュシアンは即答した。 最近、彼はそこだけ少し早くなった。 ノエルに何度も「逃げる言い方です」と言われたせいだろう。「大人でも分からない。だから、専門官に相談する」 ノエルは、スプーンを持ったまま考え込んだ。







